アンドレ・ジッド『田園交響曲』

André Gide La Symphonie pastorale/『田園交響楽

 あなたのおかげで視力が与えられたとき、目のまえに開けた世界は、あたしが想像していたより、ずっと美しいものでした。ほんとに、日の光がこうも明るく、風がこうもきららかで、空がこうもひろびろしていようとは、夢にも思っていませんでした。けれどまた、人間の額がこうまで憂いをたたんでいようとも、けっして想像していませんでした。

田園交響楽 (新潮文庫)

田園交響楽 (新潮文庫)

 

 

瞼を閉じて、部屋の中を手探りで歩いてみる、あるいは外の声に耳を澄ましてみる。真っ暗とはいえ、頭の中には「見えて」いたときの部屋の間取りが浮かぶだろうし、聞こえてくる音が鳥の声で、鳥が大体どんな形をしているか知っている。「見える」「見えない」について考えだすと案外むずかしい。

 

ジェルトリュードは生まれたときから盲目の少女だ。それも耳の聞こえない老婆に育てられたから牧師に拾われたときは口を聞くこともできなかった。泥人形のように正気がない彼女の世界にあるのは、無秩序な音と肌を撫でる熱だけだったかもしれない。

–––この子は眠っているのかしら。だとすれば、それはどんなにか暗い眠りなのだろう。…それにこの子にとって、眠りと目ざめとはどこがちがうのだろう。 

老婆が死に、身寄りがなくなったジェルトリュードは、牧師の家に引き取られることになる。妻の不平不満を重々承知で、牧師は盲目の少女を育て、その心の目を開こうとした。医師に教わった通りのやり方で、少女に言葉を教え、その言葉が彼女の心の沈黙を開いたとき、彼女の顔には正気が生じ、微笑が浮かんだ。牧師はその微笑に、聖書にある迷える羊のたとえの「もしこれを見出さば、われまことに汝らに告ぐ、迷わぬ99匹に勝りてこの1匹を喜ばん」を身をもって知る。

牧師はそうして、99匹の子羊を先置いて1匹の迷える子羊に慈悲を捧げるがごとくに、ジェルトリュードに「慈悲」と名付けた愛を注いだ。息子ジャックのジェルトリュードへの恋慕も思いとどまらせ、妻の苛立ちも顧みない。そしてジェルトリュードから向けられた愛を前にして初めて、ジェルトリュードへの思いの名前を知ることになる。ほどなくして、待ち望んでいたはずの開眼手術を受けた彼女は、川に身を投げて死んでしまうのだが。

 

文学の中で登場人物たちはいつも「出来事」を待っている。起承転結の転だ。文学に限らず私たちの人生もまた「出来事」の繰り返しなのかもしれない。その度にそれと戦ったり、負けたり、乗り越えたり、悲しんだり、時に「出来事」と気づかずに見過ごしてしまったり。何にせよ、備えていなければ私たちは「出来事」に立ち向かうことはできないのだと思う。

そして牧師はジェルトリュードにその備えを与えなかった。

 

表題にもなっている「田園交響楽」を二人が音楽会に聞きに行ったときのことである。

「あなたがたの見てらっしゃる世界はあんなに美しいのですか?」(…)

 私はすぐには答えられなかった。えも言われぬその階調が、実は世界をあるがままに写しだしたものではなくて、もし悪と罪とがなかったらさだめしこうもあろうか、こうもあったろうかという世界を描いたものだと私には思い返されたからである。

 牧師は悪や罪がこの世界にあることを、うまくジェルトリュードに伝えられずにいた。ずっと知恵がついてからも、牧師は彼女が聖書を一人で読むことを嫌がり、罪や戒律について書かれたパウロの書だけは決して読ませようとはしなかった。

「もし盲目なりせば、罪なかりしならん」といって、牧師はその言葉を文字通り盲目のジェルトリュードに当てはめ続けようとし、彼女の中を満たす幸福が彼女が罪を知らぬことからできていると思い込み続けた。とはいえ、彼女は言葉を与えられたときから、少しずつ盲目から放たれつつあったのだし、牧師はその成長から目を背けた。

 

彼が目を背けたのはジェルトリュードからだけではない。妻子の心の機微や成長にもまた、彼は自分の知っている言葉でのみ蓋をし、目を背け続けた。息子ジャックが、知らぬ間に抱いていたジェルトリュードの恋心に困惑、さらには憤怒し、彼が自分の命令を聞き入れれば「もとの可愛い子供にかえってくれたね」と呼びかける。そのことが、かえって息子をカトリックに転向させてしまおうとは思いもよらない。
牧師もまた盲目だった。この作品には「盲人もし盲人を導かば」という主題がひっそりと仕組まれていた。

 

真の意味で「目を開く」ということを考えている。私もまた盲人だから、「出来事」を迎え入れるには、真に開かれている人の導きの下で、しかるべき備えをしなくてはいけない。

 

 

人生には「出会い」と「出来事」が大切だという話でした。

はじめまして

大学4年の夏も終わる。気が付けば実家でひきこもりまがいの生活を送っている自分。どうしたものか…

と言ってはみたものの、実はそんなに悲観的ではない。いろいろあったが、夢がはっきりしたのでブログを始めることにした。今の自分に欠けているものは、アウトプットだと思う。

 

文学中心、イタリアよりの雑記ブログになると思います

おてやわらかに