アントニオ・タブッキ『夢の中の夢』

Antonio Tabucchi Sogni di sogni/『夢の中の夢』

ひと言で現代芸術の主要な特徴を要約しようと思えば、それは<夢>という言葉のなかに完璧に発見できるだろう。現代芸術とは夢の芸術なのだ。(一七〇) ––– 不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア

夢のなかの夢 (岩波文庫)

夢のなかの夢 (岩波文庫)

 

古典とは、「今読み返しているところです」と言ってしまう本だとカルヴィーノは言っていたけれど、私はこの『夢の中の夢』に関していつも同じことを言ってしまう。もちろん、古典というには新しすぎるという意見もあるだろう。どうしてそんなことを思うのだろうか。

 

タブッキはこの『夢の中の夢」で、二十の芸術家たちの夢を想像し、それを二十の断章へと写し取った。オウィディウスからフロイトまでの夢の断章は全て実在の人物にまつわるものだが、最初のダイダロスだけは架空の人物だ。

たとえば、オウィディウス黒海に面したトミスの町で、大きな蝶に変身する夢を見る。みごとな黄色と空色の羽の蝶だ。しかし、変身した詩人の声に人々は耳を傾けず、その姿に皇帝カエサルは機嫌を損ねて、蝶の羽を切るように命じる。

たとえば、ペソア。1914年3月7日の夜のこと、ペソアはアルベルト・カエイロに会いにいく。タブッキはペソアの研究者だった。誰よりもペソアのことを良く知り、そして、もしこう言って良ければ、彼はペソアの目で世界を見たがった、ペソアになろうとした。このペソアの断章で紡がれるのは、あまりにも考え抜かれ、作り込まれた、ほんとうのようで嘘の夢だ。

 

オウィディウスのことも、ペソアのことも、イタリアについてあまり知らない人には馴染みがないであろうレオパルディやコッローディのことも、ここに敢えて詳しく書かない方がいいだろう。初めてこの本を読んだときの私も、彼らについて何一つ知らなかったからだ。5年前、初めてこの本を手にしたときは、私にとって全てがただの不思議な夢物語だった。つけ入る隙のない幻想小説のような顔をしていた。それが今では、全く別の顔を持って目の前に立ち現れるように感じられる。今になって気付くのは、読み手がこのテクストに反射させるものが多ければ多いほど、このテクストから帰ってくるものも大きいということだ。そしてまた、これらの登場人物たちの実際のテクストに、タブッキが生み出した夢を反射させることもできる。

 

残念ながら、この本について、私が語れることは今でもまだ少ない。だからこそ、できるだけ初めに、この本について触れたかった。これからもまた、一見閉ざされているかのように見える、この精巧な夢物語の中に、いくらでも入り込む場所を増やすことができるだろう。私は何度でもこの本に立ち返り、「読み返す」だろう。カルヴィーノの紡いだ物語が古典と呼ばれるに相応しいように、カルヴィーノが背中を押したタブッキの物語にも何かが光ってみえる。それは、過去に、未来に、反射する光だろうか。なんにせよ、この本は、やはり私にとっての古典なのだし、誰にとっての古典にもなりうる、そんな気がしている。

 ⚪︎関連作品 

タブッキの作品の邦訳出版にはとある法則がある。

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

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フェルナンド・ペソア最後の三日間

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新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

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