稲垣足穂『天体嗜好症』

稲垣足穂 『天体嗜好症』

 ……それはどう云いましょうか?その性質として伝統を持っていないもの。たとい伝統はあっても、それがしきたりの附随感を与えないような類を指しているのでした。だから一面に、それらは虚無的であり、機械的だとも云えます。

一千一秒物語 (新潮文庫)

一千一秒物語 (新潮文庫)

 

 この作品の中で主人公が賛美するものは、曲馬団の象よりも、ぴかぴかした鍵に飾られたクラリネットで、クラリネットよりは、自動車の方がよく、自動車よりもライト式飛行機の方がいいと言う。そして映画の余興として行われていたキネオラマが主人公の心を何よりも惹きつける。

あの人工であるために、本当の自然物よりもいっそうきれいに、奇妙に浮き上った風景が、電気光線によって夕暮になったり、イナビカリがしたり、また虹が現れたりするキネオラマが、どんなに心を惹くものであったかは、いまさら云うまでもありません。 

 こうした嗜好を眺めてみると、20世紀初頭のイタリア未来派の近代文明や機械への嗜好とかなり似通っているように感じられる。そしてまた、これらの嗜好の羅列は、未来派がそうだったように、男性的なものが多い。

さらに、伝統をもたない、あるいは伝統が附随しないような皮肉的な自虐を孕むものと言え、そして粘着質というよりは、さらさらした、もっと言えば虚無的で機械的なものと言えるだろうか。つまり、後に足穂が命名したA感覚によって知覚されるものと呼ぶことができるような気がするのだ。

 

ところが次第に、主人公の賛美は、これらの機械的で男性的なものを飛び越え、友人オットーの導きかれるようにして、宇宙にまで至った。

そしてこのことが、やがて“Uranoia”とオットー自身が命名した私どもの奇妙な永遠癖の罹り始めでもあったのでした。

彼らはもともと、自分たちでキネオラマを作ってみるはずが、「何に使うともなく、星型や、月形や、彗星型や環のついた土星型を」切り抜きし、宇宙に夢を見始める。この辺から、足穂と未来派との乖離が浮き彫りになってくる。未来派は、月のような電気の輝きを賛美したが、当の月の光のほうは、街いっぱいのライトでもって殺そうと息巻いていた。未来派にとっては、おそらく月は女性的なものであり(lunaという女性名詞のイタリア語からも推察されるように)、自動車や飛行機と並んで賛美するものでは到底なかった。

一方で、足穂がこの作品で紡ぐのは、激しすぎるまでの天体への賛美だ。月を始めとする天体を、A感覚によって知覚されるものと並列させることに、初め私は違和感を抱いていた。たとえば和歌、特に足穂が他の評論で例に出す小倉百人一首の中で詠まれる月というのは、いつも女性的なものだったからだ。

しかしこの作品を読めば読むほど、主人公というよりは足穂の、夥しいほどの円、あるいは半円に関する記述や執着があることに気が付いた。

「あそこなんだよ––– 道はうしろの方から登るのだ」

 指し示されたこの辻の左向う、銀梨子地の星空の下に、そこを半円形に区切っているポプラらしいものが生えた丘と、そのてっぺんに載っかっている、オットーの服の色と同じ緑色の灯影が洩れた円屋根の影とが透かされました。

これらは紛れもないA感覚への示唆だと思う。そういえば、宇宙飛行士の野口さんが「ISSから見る月は、男性的なんですよ」と言っているのを最近耳にした。武骨ながらも、白くなめらかな曲線をもつ月。妖しさと男性性を備えた月。月への憧憬は、A感覚への憧憬に実は近いのかもしれない。

この作品ではそうした憧憬を、病的なものにまで昇華し、「天体嗜好症」(Uranoia)という名前を与えている。この言葉は古代ギリシアの天空神ウラノス(Uranus)からきていると思われるが、派生語に「少年嗜好症」(Uranisme)というのがある。

 

もちろん、このA感覚という用語は足穂の『A感覚とV感覚』によるものだが、この感覚について知ろうとすればするほど、それは朧げに透けては消え、雲をつかむような気持ちになることがある。

そして女性の側には、先生のおっしゃる感覚の自乗、AとVの混合の常識化…辛いお話です。ええ、とてもつらいことです。感覚の増加は消耗を意味します。 『A感覚とV感覚』

こちらの側から、鈍化してしまったA感覚を蘇らせ、これらのテクストと真正面から向き合うことの難しさを感じている。とにかくこの『天体嗜好症』という作品を読むにあたって、キネオラマの中に迷いこんだかのような美しい幻に満足しているだけでは、「大きな三日月に腰掛けている」足穂のところへは「行かれあしない」ということだ。

 

⚪︎関連作品

 カルヴィーノは京都を訪れ石庭を眺めた際、足穂のとある詩のことを思い浮かべている

砂のコレクション (イタリア叢書)

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