アンナ・カヴァン『氷』

Anna Kavan "ice" / 『氷』

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 
氷 (1985年) (サンリオSF文庫)

氷 (1985年) (サンリオSF文庫)

 

この物語の筋書きは簡単、輝き揺らめく死の氷にも似たアルビノの少女を男がどこまでもどこまでも追い求めるストーリーだ。その筋書きは冒頭2ページで把握することができる。少女に一目会いにやってきたが、道に迷ってしまった男。ガソリンスタンドの従業員が「この時期にこんなに寒かったことなど、ついぞなかったんですがね」と言うのが、不気味な予感を掻き立てる。男は従業員の忠告も聞かず、車を走らせる。そこで突如、非現実的な氷のビジョンが現れる。

ヘッドライトが瞬時、探照灯のように少女の裸体を浮かび上がらせる。雪の純白を背にした、子供のように華奢なアイボリーホワイトの身体、ガラス繊維のようにきらめく髪。少女は私のほうを見ていない。その眼は、ゆっくりと彼女に向けて迫ってくる壁にひたと据えられている。ガラスのように輝く巨大な氷塊の環。少女はその中心にいる。 

 氷はどこにいても襲ってくる。天からも地からも何の前触れもなしにやってくる。少女はその環状世界に閉じ込められるか、圧倒的な暴力の前に倒れ、苦悶の表情を浮かべ、男の前に現れたと思ったらすぐに少女は失われてしまう。こんなことが何度も繰り返される。少女を失った直後に、車は走り出し、また少女を追い求める。

筋書きは簡単だと言ったが、違った。この物語には筋書きも時間軸もないのかもしれない。めまぐるしく変わる氷のヴィジョンが、読者をも終末の絶対零度の世界に閉じ込めてしまう。

 

そしてまた、この物語には、はっきりと筋の通った人物などひとりもいないのかもしれない。終末間近の世界では、人々は誰もが冷酷で疑い深く敵対的だ。男もまた、少女を求めるのは、愛のためではなく、支配欲のため、あるいは加虐嗜愛のためだ。少女を殺すことができるのは、「ただ一人、私しかいない」と思っている。慈愛があるように見せかけて、少女に拒まれれば、突如激昂する。

少女に感じている絶対的な希求の思いも、私自身の失われた自己の一部という面から考えれば、愛というより、説明のつかない常軌を逸した感情のような気がしてくる。 

 初めのほうは自己分析も上手くいっていたのに、結局、男は戻ることができない。こうした省察も最終的には全てかなぐり捨て、欲望に身を任せ、他者を踏みにじってでも、少女の手を引こうとする。何度となく、男は、自分が少女を支配していた長官の姿に自分を重ね合わせていく。男と少女と長官の三角関係にも思われた図式は、実は初めから男と少女の図式でしかなかったのかもしれない。

 

少女の方も少女の方で、死の匂いのする氷めいた様相は、場面ごとにその姿を変える。男のヴィジョンの中で少女が苦悶し、生き絶えるたび、また新たな顔を覗かせるかのようだ。全ての犠牲者として扱われながら、少女は沈黙あるいは服従し、かと思えば、激しい抵抗をみせ、時には娼婦めいたこともしてみせる。一時は寒さのために「ヴェネチアンガラスのように砕けていった」かと思うと、逃げ果せた街でスミレのドレスを着て観衆にスミレの花をばらまく。最終的には、昔からずっと感情的に生きてきた年増の女のようなヒステリーで「それじゃ、私がそのようなことを言わなければ、ずっと私と一緒にいてくれたと言うの?」と問うのだから、彼女は一体、自己の中に何人の人間を飼っていたのだろうかと思うほどである。

 

どこにも筋書きはない。男と少女という二本の糸が編まれる過程で枝分かれし、そしてまた絡み合い、無数の網目を、それも光の反射で氷のように夢幻の表情を見せながら展開していく。

 

この作品の非現実感、疾走感、不安感、そして、鮮烈すぎるほどの夢幻の構築美は、他のどの作家のどの作品にも例えられない。「スリップストリーム」という分類があるそうだが、なるほど「スリップ」という感覚はこの作品にまさに一致するが、この分類に含まれる他の作家たち(SFではJ・G・バラード、P・K・ディック、そしてボルヘス村上春樹)と並べてしまうのでは、この作品の特異性、美しさを朧げにしてしまうのではないか。

 

私は、眼の前にあるものを眺めると同時に、少女の姿を見ていた。少女の映像は常に私とともにあった。紙入れの中と頭の中に。そして今、私が眼を向けるところすべてに少女のイメージが現われた。あらゆるところに、大きな眼を見開いた、少女の白い失われた顔があった。

 

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