筒井康隆/『農協月へ行く』

筒井康隆 『農協月へ行く』

「そうです。月面には何にもありません。砂以外、何もありません。空気さえありません。何があると思っていたのです(…)」 

農協月へ行く (角川文庫 緑 305-14)

農協月へ行く (角川文庫 緑 305-14)

 

 これは一体どのくらい先の未来だろうか。観光用宇宙船が、もう何度も日本と月の間をいったりきたりしているらしい。お金を持っている人なら誰でも乗ることができる。今回月に行くのは成金の農民たちだ。

「ははあ、月。月いうたらあれけ、あの、夜出るあの月け。あんなとこに行けんのけ」

「日本かてもう先から行とるらしい。この間からぼつぼつ、一般の観光客まで乗せよるちゅうわ。もっとも団体割引はしてないらしいがの」

彼らは月旅行を海外旅行と同じようなものと思っているらしい。これまで文学の中で月に飛び立った人間、アストルフォやシラノなどに比べて倫理も知性もなければ、月への敬意もちっとも見られない。豪胆さだけはあるようだ。おそらく、見ようによっては、この農民たちは、文学史上稀に見る悪漢だ。本能や欲望のままに振る舞いわめき立て、宇宙船操縦士をヒステリーにまで陥れ、そして人類で初めて異星人との交信に成功する。

「つまりその、たとえばだね、地球人として、異星人とたまたま最初に接触したのが、たとえばその、日本のその、農、農協であったというような」語尾を濁し、大統領は頭をかかえこみ、自分のことばに自らかぶりを振った。「まあ、ないだろうねえ。そんな馬鹿な小説は」

2018年、つい最近、米宇宙ベンチャーを通じて日本人が月旅行に行くことが話題になったばかりだ。これが書かれた1979年よりも、現在よりも、もっと後、本当に一般人が月に行ける時代が来るのかもしれないが、筒井作品で描かれている悪漢たちが、未来にもいると思うと、目を背けたくならないだろうか。

 

いや、きっと目を背けてはいけないのだろう。悪漢ばかりではない。高慢な女性評論家、会社第一の上司、淡白な医者、紛糾する国際会議、欲望から目を背けられない女、神経病に倒れる男…どれも過剰なカリカチュアだと言って、この作品で描かれる人間たちから目を背けてはいけない。ここに描かれているのは全て、人間一般のグロテスクでエロティックな真実なのだ。エログロといっても、サド的なものではなく、ともすればその滑稽さに笑いが漏れてしまうような性質のもの。だからこそ、貶められ見落とされる性質のもの。こうした性質のものを汲み取るためには、「ドタバタ、スラップスティック、ハチャメチャSF」でしかあり得なかっただろう。

「SF作家だと」どんとテーブルを叩き、国防省長官が吐き捨てるように叫んだ。「夢物語を書いている気ちがいどもじゃないか」

そしてまた、秀逸なのは、筒井康隆の軽妙な文体や筆致であり、この軽さが、彼の作品をただのSFでもなく風刺でもなく、文学たらしめているのではないだろうか。

 

こんな作品は、ありとあらゆる古典に支えられた名手にしか書けない。ほんの少し文体が違うだけで、言葉選びが違うだけで、吐き気を催すようなカオスが生まれていただろう。この作品は、奇妙なほど、完璧な均衡が保たれている。それも、あと一滴でも注がれれば溢れてしまう、満杯のグラスの表面張力の均衡だ。これをカオスモスと呼べるだろうか。

「われわれは日本の農協に負けた。連中のバイタリティと、その厚かましいほどの馴れなれしさと、そして図太さにん負けたのだ。(…)連中が勝ったのだ。わはは、わは、わは、わははははははははははは」