筒井康隆/『農協月へ行く』

筒井康隆 『農協月へ行く』

「そうです。月面には何にもありません。砂以外、何もありません。空気さえありません。何があると思っていたのです(…)」 

農協月へ行く (角川文庫 緑 305-14)

農協月へ行く (角川文庫 緑 305-14)

 

 これは一体どのくらい先の未来だろうか。観光用宇宙船が、もう何度も日本と月の間をいったりきたりしているらしい。お金を持っている人なら誰でも乗ることができる。今回月に行くのは成金の農民たちだ。

「ははあ、月。月いうたらあれけ、あの、夜出るあの月け。あんなとこに行けんのけ」

「日本かてもう先から行とるらしい。この間からぼつぼつ、一般の観光客まで乗せよるちゅうわ。もっとも団体割引はしてないらしいがの」

彼らは月旅行を海外旅行と同じようなものと思っているらしい。これまで文学の中で月に飛び立った人間、アストルフォやシラノなどに比べて倫理も知性もなければ、月への敬意もちっとも見られない。豪胆さだけはあるようだ。おそらく、見ようによっては、この農民たちは、文学史上稀に見る悪漢だ。本能や欲望のままに振る舞いわめき立て、宇宙船操縦士をヒステリーにまで陥れ、そして人類で初めて異星人との交信に成功する。

「つまりその、たとえばだね、地球人として、異星人とたまたま最初に接触したのが、たとえばその、日本のその、農、農協であったというような」語尾を濁し、大統領は頭をかかえこみ、自分のことばに自らかぶりを振った。「まあ、ないだろうねえ。そんな馬鹿な小説は」

2018年、つい最近、米宇宙ベンチャーを通じて日本人が月旅行に行くことが話題になったばかりだ。これが書かれた1979年よりも、現在よりも、もっと後、本当に一般人が月に行ける時代が来るのかもしれないが、筒井作品で描かれている悪漢たちが、未来にもいると思うと、目を背けたくならないだろうか。

 

いや、きっと目を背けてはいけないのだろう。悪漢ばかりではない。高慢な女性評論家、会社第一の上司、淡白な医者、紛糾する国際会議、欲望から目を背けられない女、神経病に倒れる男…どれも過剰なカリカチュアだと言って、この作品で描かれる人間たちから目を背けてはいけない。ここに描かれているのは全て、人間一般のグロテスクでエロティックな真実なのだ。エログロといっても、サド的なものではなく、ともすればその滑稽さに笑いが漏れてしまうような性質のもの。だからこそ、貶められ見落とされる性質のもの。こうした性質のものを汲み取るためには、「ドタバタ、スラップスティック、ハチャメチャSF」でしかあり得なかっただろう。

「SF作家だと」どんとテーブルを叩き、国防省長官が吐き捨てるように叫んだ。「夢物語を書いている気ちがいどもじゃないか」

そしてまた、秀逸なのは、筒井康隆の軽妙な文体や筆致であり、この軽さが、彼の作品をただのSFでもなく風刺でもなく、文学たらしめているのではないだろうか。

 

こんな作品は、ありとあらゆる古典に支えられた名手にしか書けない。ほんの少し文体が違うだけで、言葉選びが違うだけで、吐き気を催すようなカオスが生まれていただろう。この作品は、奇妙なほど、完璧な均衡が保たれている。それも、あと一滴でも注がれれば溢れてしまう、満杯のグラスの表面張力の均衡だ。これをカオスモスと呼べるだろうか。

「われわれは日本の農協に負けた。連中のバイタリティと、その厚かましいほどの馴れなれしさと、そして図太さにん負けたのだ。(…)連中が勝ったのだ。わはは、わは、わは、わははははははははははは」

 

梨木香歩『海うそ』

梨木香歩『海うそ』

まるで、この山野に、そんなものが存在していたことなど、一度もなかったかのように。夢だったのだろうか。浜の方から吹き上がる風が、外側から自分の内側へ、通り抜けていく。

海うそ (岩波現代文庫)

海うそ (岩波現代文庫)

 
海うそ

海うそ

 

 この物語を初めて読んだとき、私は自分の生まれた島のことが書かれていると思った。解説の山内志朗氏も同じようなことを言っている。しかし、この物語の舞台「遅島」は日本の南九州のどこかにあるらしいが、地図を開いてみてもどこにも見当たらない。

「遅島」はどこにもなく、そしてどこにでもある島なのだ。自然と歴史の中で宙ぶらりんのまま放っておかれた島。そしてその島に、両親に先立たれ許嫁も失くした宙ぶらりんの男がやってくる。

 

男、秋野は人文地理学の研究者で、彼が所属する研究室の主任教授が遺した報告書をきっかけに、遅島に興味を抱くようになる。

読んでいるうち、その地名のついた風景の中に立ち、風に吹かれてみたい、という止むに止まれぬ思いが湧いて来たのだった。 決定的な何かが過ぎ去ったあとの、沈黙する風景の中にいたい。そうすれば人の営みや、時間というものの本質が、少しでも感じられるような気がした。

 遅島は「古代、修験道のために開かれた島」だった。明治期の廃仏毀釈により穿たれ苔生した島の遺構の姿に、度重なる喪失で蝕まれた自分の精神の奥を重ねていく秋野。

存在の奥の方で、世界ぜんたいに対する「不信」が起こっている。それが、表面に現れて来ず、それだけに厄介な広がり方で自分の精神の奥が蝕まれている。 

 日本の土壌での、新仏融合とは「ほんとうはふたごとして生まれてくるべき二人が、体の一部をくっつけて生まれてくる」ようなものだった。それを無理やり分かつというのは、「生木を裂く」と言えるほど、むごたらしい結果を生んだ。さらに、「神道を国体として確固としたものにする」ために、仏教よりもその標的となったのは民間宗教だった。「遅島」では、モノミミ信仰が根こそぎ奪われてしまった。

 

歴史の中で奪われていった島は、その叫びや祈りを内側に秘めている。秋野は、島で知り合った青年、梶井とともに、島の奥部へ、修験の道へと足を踏み入れていく。日本の修験道は、「自然の中で、自然の本体=大日如来と一体化し、即身成仏を目指すもの」であったが、秋野の道行きもまた一つの擬死再生のための道だったかもしれない。

この島で秋野が感じ取るのは、諸行無常では捉えきれないもの、「色即是空」であり、「その続きを」島を出た秋野はこれから探していくことになる。

 

五十年後、再び遅島を訪れた秋野が目にしたものは、新しく「生まれ変わろう」と人間の手が加えられつつある島の姿だった。歴史も自然も、人間の姿も、かつてのものは滅び、そしてそこには全く新しいものが広がろうとしていた。気を落とす秋野の前に、唯一変わらないものとして現れるのは「海うそ」だった。蜃気楼のことである。

風が走り紫外線が乱反射して、海も山もきらめいている。照葉樹林樹冠の波の、この眩しさ。けれどこれもまた、幻。だが幻は、森羅万象に宿り、森羅万象は幻に支えられてきらめくのだった。

 

私もまた、遅島ではないが、生まれは南九州の小さな島である。「「なぜ、自分はこの島にいるのか」という哲学的問い」もまた、胸中を何度も掠めたことがある。どんな島も町も変わらないものはない。自然も食物連鎖と環境の変化の中で、刻一刻と姿を変えていく。自然の中に、歴史の中に、微かに残る叫びや祈りもいつかは全く聞こえなくなってしまうかもしれない。しかしそこに目も耳も峙て、手を伸ばすとき、時間の陰影のなかに揺らいで見えるものが「海うそ」なのだとすれば、この物語の秋野がそうであったように、それを見ようとするものは求め続けずにはいられない。

「長い長い、うそ越えをしている」

立体模型図のように、私の遅島は、時間の陰影を重ねて私のなかに新しく存在し始めていた。これは、驚くべきことだった。喪失が、実在の輪郭の片鱗を帯びて輝き始めていた。

 

今年文庫化された『海うそ』には、『西の魔女が死んだ』で児童文学作家としてデビューした梨木香歩の温かく包み込むような雰囲気も健在だった。とくに自然、植物に対する豊かな描写が読者を物語の世界に引き込んでくれる。童話や民話の力に支えられた梨木の筆致は、軽やかな想像力を秘めている。

○関連書籍

家守綺譚 (新潮文庫)

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西の魔女が死んだ (新潮文庫)

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 どこにもなく、そしてどこにでもある日本の島の物語

魚神 (集英社文庫)

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アンナ・カヴァン『氷』

Anna Kavan "ice" / 『氷』

氷 (ちくま文庫)

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氷 (1985年) (サンリオSF文庫)

氷 (1985年) (サンリオSF文庫)

 

この物語の筋書きは簡単、輝き揺らめく死の氷にも似たアルビノの少女を男がどこまでもどこまでも追い求めるストーリーだ。その筋書きは冒頭2ページで把握することができる。少女に一目会いにやってきたが、道に迷ってしまった男。ガソリンスタンドの従業員が「この時期にこんなに寒かったことなど、ついぞなかったんですがね」と言うのが、不気味な予感を掻き立てる。男は従業員の忠告も聞かず、車を走らせる。そこで突如、非現実的な氷のビジョンが現れる。

ヘッドライトが瞬時、探照灯のように少女の裸体を浮かび上がらせる。雪の純白を背にした、子供のように華奢なアイボリーホワイトの身体、ガラス繊維のようにきらめく髪。少女は私のほうを見ていない。その眼は、ゆっくりと彼女に向けて迫ってくる壁にひたと据えられている。ガラスのように輝く巨大な氷塊の環。少女はその中心にいる。 

 氷はどこにいても襲ってくる。天からも地からも何の前触れもなしにやってくる。少女はその環状世界に閉じ込められるか、圧倒的な暴力の前に倒れ、苦悶の表情を浮かべ、男の前に現れたと思ったらすぐに少女は失われてしまう。こんなことが何度も繰り返される。少女を失った直後に、車は走り出し、また少女を追い求める。

筋書きは簡単だと言ったが、違った。この物語には筋書きも時間軸もないのかもしれない。めまぐるしく変わる氷のヴィジョンが、読者をも終末の絶対零度の世界に閉じ込めてしまう。

 

そしてまた、この物語には、はっきりと筋の通った人物などひとりもいないのかもしれない。終末間近の世界では、人々は誰もが冷酷で疑い深く敵対的だ。男もまた、少女を求めるのは、愛のためではなく、支配欲のため、あるいは加虐嗜愛のためだ。少女を殺すことができるのは、「ただ一人、私しかいない」と思っている。慈愛があるように見せかけて、少女に拒まれれば、突如激昂する。

少女に感じている絶対的な希求の思いも、私自身の失われた自己の一部という面から考えれば、愛というより、説明のつかない常軌を逸した感情のような気がしてくる。 

 初めのほうは自己分析も上手くいっていたのに、結局、男は戻ることができない。こうした省察も最終的には全てかなぐり捨て、欲望に身を任せ、他者を踏みにじってでも、少女の手を引こうとする。何度となく、男は、自分が少女を支配していた長官の姿に自分を重ね合わせていく。男と少女と長官の三角関係にも思われた図式は、実は初めから男と少女の図式でしかなかったのかもしれない。

 

少女の方も少女の方で、死の匂いのする氷めいた様相は、場面ごとにその姿を変える。男のヴィジョンの中で少女が苦悶し、生き絶えるたび、また新たな顔を覗かせるかのようだ。全ての犠牲者として扱われながら、少女は沈黙あるいは服従し、かと思えば、激しい抵抗をみせ、時には娼婦めいたこともしてみせる。一時は寒さのために「ヴェネチアンガラスのように砕けていった」かと思うと、逃げ果せた街でスミレのドレスを着て観衆にスミレの花をばらまく。最終的には、昔からずっと感情的に生きてきた年増の女のようなヒステリーで「それじゃ、私がそのようなことを言わなければ、ずっと私と一緒にいてくれたと言うの?」と問うのだから、彼女は一体、自己の中に何人の人間を飼っていたのだろうかと思うほどである。

 

どこにも筋書きはない。男と少女という二本の糸が編まれる過程で枝分かれし、そしてまた絡み合い、無数の網目を、それも光の反射で氷のように夢幻の表情を見せながら展開していく。

 

この作品の非現実感、疾走感、不安感、そして、鮮烈すぎるほどの夢幻の構築美は、他のどの作家のどの作品にも例えられない。「スリップストリーム」という分類があるそうだが、なるほど「スリップ」という感覚はこの作品にまさに一致するが、この分類に含まれる他の作家たち(SFではJ・G・バラード、P・K・ディック、そしてボルヘス村上春樹)と並べてしまうのでは、この作品の特異性、美しさを朧げにしてしまうのではないか。

 

私は、眼の前にあるものを眺めると同時に、少女の姿を見ていた。少女の映像は常に私とともにあった。紙入れの中と頭の中に。そして今、私が眼を向けるところすべてに少女のイメージが現われた。あらゆるところに、大きな眼を見開いた、少女の白い失われた顔があった。

 

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ヘルマン・ヘッセ『メルヒェン』

Hermann Hesse MÄRCHEN / 『メルヒェン』

 埋もれていた無数の記憶が揺すぶられ、流れ、ころがりはじめた。暗い目をした人間の顔が見えた。その目が強いるように山に尋ねた。

「願いごとをしたくはないかい?」と。

メルヒェン (新潮文庫)

メルヒェン (新潮文庫)

 『メルヒェン』には、ヘルマン・ヘッセの作品の中でも、とりわけ美しい短編が8つ収められている。メルヒェンとは、日本語でおとぎ話や童話と訳されるような、空想と現実とが入り混じった物語の形式のことを指すが、この作品は、おとぎ話として子供が読むには少し難しいものが多いような気がする。さらに、日本の小学校の国語の教科書によく載っている、ヘッセの『少年の日の思い出』とも趣が大きく異なっている。ここに収められている作品たちはどれも教訓的で、神秘的で、少し難解に感じられたのだ。

大人のためのメルヒェンと呼ぶことができないだろうか。

 

新潮文庫版の解説には、これらの作品が書かれた時期が詳しく説明してある。『アウグスツス』、『詩人』、『笛の夢』は第一次世界大戦前に書かれ、以下『別な星の奇妙なたより』を含む5作は第一次世界大戦中に書かれたそうだ。こうした経緯を踏まえて作品を見てみると、前半の三作には、一人の人間、あるいは芸術家としての魂の求道が描かれているのに対して、後半の五作にはそうした傾向に加えて、世界そのものの本質を問いただす眼差しが含まれ、作者の意図の変容が確かに感じられる。

 

『アウグスツス』では、「誰からも愛される子になってほしい」という母の祈りが文字通り叶えられ、人々の愛に包まれて育った少年が、その愛に慢心し、貪婪に食いつくし、放蕩に耽るさまが描かれる。少年はやがて、愛される代わりに愛することを望み、全ての富や名声や他人からの愛を失うが、愛することを知ったとき初めて、彼は世界の美しさと人生の喜びを知る。対比が明確で鮮烈な童話だ。

 

対して、『別な星の奇妙なたより』は、童話を飛び越したSFのような作品になっている。ある平和な街が大地震に襲われ、死者を埋葬するための花が欠乏してしまった。花不足を救うため、勇気ある少年が救いを求めて王様を探しに行く。しかし、少年が、不思議な鳥に運ばれて、たどり着いたのは戦争に明け暮れ、人々が餓え死にたえる、全く別の世界だった。彼の元いた世界では、戦争は遥か昔のおとぎ話と化していた。その世界の王様は少年の無垢な言葉に真摯に心を傾けたが、戦争をやめることはなかった。

王様は頭を振った。「わしの国では人殺しも珍しくはないが」と彼は言った。「最も重い犯罪だと見られている。戦争の時だけはそれが許されている。戦争では、だれも憎しみや、ねたみから、自分の利益のために人殺しをするのではなくて、みんな団体から要求されることにすぎないからだ。だが、われわれがむぞうさに死ぬと思ったら、誤りだ。死人の顔を見れば、それがわかる。彼らは苦しんで死ぬのだ。苦しんで、いやいやながら死ぬのだ。

大きな力に突き動かされ、誰一人戦いの歯車から逃れることのできなかった「総力戦」と呼ばれる第一次世界大戦の惨禍の中でヘッセが見つめた戦争の姿がこの作品の中で浮き彫りになっている。

ヘッセの作品の登場人物たちは、誰もが魂の旅をしている。悩み、愛し、傷付きながら、ときには求道僧のように長い旅に身を投じることになる。ただ、最終的に、『車輪の下』で死に向かうハンスとは違って、『メルヒェン』の登場人物たちは、最終的には生きることの意味を悟り、救いを得るのだが、そこに戦前戦中のヘッセの問いの変遷を見出すことはできないだろうか。ヘッセ自身もまた、人が生きることの意味を問い、そして救いを求めながら、これらの作品を書いたのかもしれない。

 

他にも、『メルヒェン』の童話の中に登場する、魔法使いに注目したい。

アウグスツスの人生を左右する不思議な老人の姿をした魔法使いは、優しく母子を見守り、彼らを導く存在だった。極度に介入することもなく、願いを叶えるのはいつも、人が心から何かを願うときだけだった。最後のシーンを経て読者の目に老人の存在は極めて超越的なものとして映ることになる。

 一方で、『ファルドゥム』で登場する「よその男」も同様に不思議な力を持っているが、『アウグスツス』に登場する老人とは違って、次から次へと簡単にファルドゥムの街の人々の願いを叶えてしまう。美しく長い髪、清らかな手、踊れる足、ソーセージ、お金…人々がたとえ何を願おうとも、この男は何の対価も必要としないし、むしろ男の方から「何か願い事はないのか」と迫ってくる始末だ。とあるヴァイオリン弾きが、静かな場所でひとりヴァイオリンが弾けるように願うと、ヴァイオリン弾きは消えた。それを見た、何よりもヴァイオリン弾きの奏でる音を愛していた青年は、嘆き悲しみ、山になることを祈った。かくしてファルドゥムの真ん中には大きな山ができた。そして、人々の願いを粗方叶えてしまうと「よその男」は黙って去ってしまった。

しばらくして、富や美しさを願った人々は、すぐにその願いの実りを消耗していた。一方で、誰よりも悲しみを理由にして願いを抱いた青年は、山として悠久の時を享受し街を眺め、そして生きることの意味を知ることとなった。ここにも鮮明な対比が見られる。

ヘッセが描く魔法使いたちは、温かく、そして時に残酷に、人間たちの人生を動かしては、黙って彼らを眺めることを楽しむ、神のような存在のようだ。 

 

そして最後に、ヘッセは何よりも詩人だったということを思い出したい。「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」といって神学校を飛び出したヘッセのエピソードはあまりにも有名だ。これらのメルヒェンが、願い事をすることも、旅に出ることも、忘れてしまった大人のために捧げられているとすれば、作品を読むとき、私たちは、至るところに散りばめられた詩的な煌めきを受け止めることから始めなくてはならないだろう。

 

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稲垣足穂『天体嗜好症』

稲垣足穂 『天体嗜好症』

 ……それはどう云いましょうか?その性質として伝統を持っていないもの。たとい伝統はあっても、それがしきたりの附随感を与えないような類を指しているのでした。だから一面に、それらは虚無的であり、機械的だとも云えます。

一千一秒物語 (新潮文庫)

一千一秒物語 (新潮文庫)

 

 この作品の中で主人公が賛美するものは、曲馬団の象よりも、ぴかぴかした鍵に飾られたクラリネットで、クラリネットよりは、自動車の方がよく、自動車よりもライト式飛行機の方がいいと言う。そして映画の余興として行われていたキネオラマが主人公の心を何よりも惹きつける。

あの人工であるために、本当の自然物よりもいっそうきれいに、奇妙に浮き上った風景が、電気光線によって夕暮になったり、イナビカリがしたり、また虹が現れたりするキネオラマが、どんなに心を惹くものであったかは、いまさら云うまでもありません。 

 こうした嗜好を眺めてみると、20世紀初頭のイタリア未来派の近代文明や機械への嗜好とかなり似通っているように感じられる。そしてまた、これらの嗜好の羅列は、未来派がそうだったように、男性的なものが多い。

さらに、伝統をもたない、あるいは伝統が附随しないような皮肉的な自虐を孕むものと言え、そして粘着質というよりは、さらさらした、もっと言えば虚無的で機械的なものと言えるだろうか。つまり、後に足穂が命名したA感覚によって知覚されるものと呼ぶことができるような気がするのだ。

 

ところが次第に、主人公の賛美は、これらの機械的で男性的なものを飛び越え、友人オットーの導きかれるようにして、宇宙にまで至った。

そしてこのことが、やがて“Uranoia”とオットー自身が命名した私どもの奇妙な永遠癖の罹り始めでもあったのでした。

彼らはもともと、自分たちでキネオラマを作ってみるはずが、「何に使うともなく、星型や、月形や、彗星型や環のついた土星型を」切り抜きし、宇宙に夢を見始める。この辺から、足穂と未来派との乖離が浮き彫りになってくる。未来派は、月のような電気の輝きを賛美したが、当の月の光のほうは、街いっぱいのライトでもって殺そうと息巻いていた。未来派にとっては、おそらく月は女性的なものであり(lunaという女性名詞のイタリア語からも推察されるように)、自動車や飛行機と並んで賛美するものでは到底なかった。

一方で、足穂がこの作品で紡ぐのは、激しすぎるまでの天体への賛美だ。月を始めとする天体を、A感覚によって知覚されるものと並列させることに、初め私は違和感を抱いていた。たとえば和歌、特に足穂が他の評論で例に出す小倉百人一首の中で詠まれる月というのは、いつも女性的なものだったからだ。

しかしこの作品を読めば読むほど、主人公というよりは足穂の、夥しいほどの円、あるいは半円に関する記述や執着があることに気が付いた。

「あそこなんだよ––– 道はうしろの方から登るのだ」

 指し示されたこの辻の左向う、銀梨子地の星空の下に、そこを半円形に区切っているポプラらしいものが生えた丘と、そのてっぺんに載っかっている、オットーの服の色と同じ緑色の灯影が洩れた円屋根の影とが透かされました。

これらは紛れもないA感覚への示唆だと思う。そういえば、宇宙飛行士の野口さんが「ISSから見る月は、男性的なんですよ」と言っているのを最近耳にした。武骨ながらも、白くなめらかな曲線をもつ月。妖しさと男性性を備えた月。月への憧憬は、A感覚への憧憬に実は近いのかもしれない。

この作品ではそうした憧憬を、病的なものにまで昇華し、「天体嗜好症」(Uranoia)という名前を与えている。この言葉は古代ギリシアの天空神ウラノス(Uranus)からきていると思われるが、派生語に「少年嗜好症」(Uranisme)というのがある。

 

もちろん、このA感覚という用語は足穂の『A感覚とV感覚』によるものだが、この感覚について知ろうとすればするほど、それは朧げに透けては消え、雲をつかむような気持ちになることがある。

そして女性の側には、先生のおっしゃる感覚の自乗、AとVの混合の常識化…辛いお話です。ええ、とてもつらいことです。感覚の増加は消耗を意味します。 『A感覚とV感覚』

こちらの側から、鈍化してしまったA感覚を蘇らせ、これらのテクストと真正面から向き合うことの難しさを感じている。とにかくこの『天体嗜好症』という作品を読むにあたって、キネオラマの中に迷いこんだかのような美しい幻に満足しているだけでは、「大きな三日月に腰掛けている」足穂のところへは「行かれあしない」ということだ。

 

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砂のコレクション (イタリア叢書)

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アントニオ・タブッキ『夢の中の夢』

Antonio Tabucchi Sogni di sogni/『夢の中の夢』

ひと言で現代芸術の主要な特徴を要約しようと思えば、それは<夢>という言葉のなかに完璧に発見できるだろう。現代芸術とは夢の芸術なのだ。(一七〇) ––– 不穏の書、断章 フェルナンド・ペソア

夢のなかの夢 (岩波文庫)

夢のなかの夢 (岩波文庫)

 

古典とは、「今読み返しているところです」と言ってしまう本だとカルヴィーノは言っていたけれど、私はこの『夢の中の夢』に関していつも同じことを言ってしまう。もちろん、古典というには新しすぎるという意見もあるだろう。どうしてそんなことを思うのだろうか。

 

タブッキはこの『夢の中の夢」で、二十の芸術家たちの夢を想像し、それを二十の断章へと写し取った。オウィディウスからフロイトまでの夢の断章は全て実在の人物にまつわるものだが、最初のダイダロスだけは架空の人物だ。

たとえば、オウィディウス黒海に面したトミスの町で、大きな蝶に変身する夢を見る。みごとな黄色と空色の羽の蝶だ。しかし、変身した詩人の声に人々は耳を傾けず、その姿に皇帝カエサルは機嫌を損ねて、蝶の羽を切るように命じる。

たとえば、ペソア。1914年3月7日の夜のこと、ペソアはアルベルト・カエイロに会いにいく。タブッキはペソアの研究者だった。誰よりもペソアのことを良く知り、そして、もしこう言って良ければ、彼はペソアの目で世界を見たがった、ペソアになろうとした。このペソアの断章で紡がれるのは、あまりにも考え抜かれ、作り込まれた、ほんとうのようで嘘の夢だ。

 

オウィディウスのことも、ペソアのことも、イタリアについてあまり知らない人には馴染みがないであろうレオパルディやコッローディのことも、ここに敢えて詳しく書かない方がいいだろう。初めてこの本を読んだときの私も、彼らについて何一つ知らなかったからだ。5年前、初めてこの本を手にしたときは、私にとって全てがただの不思議な夢物語だった。つけ入る隙のない幻想小説のような顔をしていた。それが今では、全く別の顔を持って目の前に立ち現れるように感じられる。今になって気付くのは、読み手がこのテクストに反射させるものが多ければ多いほど、このテクストから帰ってくるものも大きいということだ。そしてまた、これらの登場人物たちの実際のテクストに、タブッキが生み出した夢を反射させることもできる。

 

残念ながら、この本について、私が語れることは今でもまだ少ない。だからこそ、できるだけ初めに、この本について触れたかった。これからもまた、一見閉ざされているかのように見える、この精巧な夢物語の中に、いくらでも入り込む場所を増やすことができるだろう。私は何度でもこの本に立ち返り、「読み返す」だろう。カルヴィーノの紡いだ物語が古典と呼ばれるに相応しいように、カルヴィーノが背中を押したタブッキの物語にも何かが光ってみえる。それは、過去に、未来に、反射する光だろうか。なんにせよ、この本は、やはり私にとっての古典なのだし、誰にとっての古典にもなりうる、そんな気がしている。

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タブッキの作品の邦訳出版にはとある法則がある。

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フェルナンド・ペソア最後の三日間

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新編 不穏の書、断章 (平凡社ライブラリー)

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多和田葉子『かかとを失くして』

多和田葉子『かかとを失くして』

鞄の中の帳面は角ばって、いやに大きく感じられた。むかし子供っぽい空想に駆られて、これとそっくりの帳面に私は、世界旅行の物語を書いたことがあったが、今は帳面は白紙で私自身が遠い国に来てしまったのだから、自分の小説に養女にもらわれたようなものだ。

 

 

最初に言っておくが、一文が長いこと長いこと。そして改行も段落も少なく文字が連綿と続くので、ふと本から顔を上げたとき世界がぐらぐらと揺れているような感じがする。

九時十七分着の夜行列車が中央駅に止まると、車体が傾いていたのか、それともプラットホームが傾いていたのか、私は列車から降りようとした時、けつまずいて放り出され先にとんでいった旅行鞄の上にうつぶせに倒れてしまった。 

 読者はこの「私」と同じ目眩の中を一緒に歩んでいくことになる。車体が傾いているのか、プラットホームが傾いているのか。文章が傾いているのか、世界が傾いているのか。

あまりにも連綿と続くものだから、一体自分がどこを読んでいるのかも分からなくて覚束なくなる。必死に指先で文字列をなぞる。場所が分かっても、今度は文章がうねうねと動いてすり抜けようとする。動作主が誰なのか、長い修飾句がいったいどこにかかっているのか、頭をひねる。

この感覚はそうだ、外国語で物語を読むときに似ている。

 

「私」は列車を降りた瞬間から不安定の中を歩き続ける。「私」は鞄の中にゆで卵を入れているが、ここでは卵は卵立てに入れて食べるらしい。平均入浴時間はシャワーで二分十七秒、そしてみんなにはある、かかと、が「私」にはない。かかとがない、ということは、その共同体に馴染むための素地や基盤がないということだろうか。

異文化の波の中で、まなざされ、指さされ、ときには不躾に手を伸ばされながらも、「私」は決して馴化することはない。学校の先生や病院で会った人に、いちいち口ごえもするし、足にプラスチックを入れるよう手術を促されても、それを頑なに拒む。そういえば、この作品が群像新人賞を受賞した当時、タイトルは『偽装結婚』だったそうだ。多和田葉子も前のタイトルの方が自分の言いたかったことを表していると、文庫版のコメントで述べている。『かかとを失くして』だと「失いたくなかった何かを失くして悲しんでいるように見える」からだ。「私」はかかとを手に入れようともせず、一方で、かかとが無いことをそれとなく隠そうとする。そして、その共同体に属せない異質な目線から、不安定な目線から、人や風景を切り取り、淡々と描写していく。

 

 ところで、足にプラスチックを入れてかかとを作れば「歩き方が変わる」らしい。「歩き方」が違うなら、かかとが無いことをどうやって隠せばいいのか。異国の街を歩く人は、その身振り素振りで、異邦人だと暴くまでもなく明らかなのだ。私はなんだかドキッとする。「私」がかかとのないことを子供達に笑われるのを見て、異国の地で街を歩くだけで、若者たちの奇妙な視線を集めたことを思い出す。

私が言葉がわからないと思っているらしいが、わからないのは向こうの方で、私がお金がない、と言っても何も反応せず同じ身振りを繰り返していた。

 さらに、「わたし」が街を訪れた当初、子供達も街の人たちも、「わたし」が何かを話そうとするのに、その言葉を理解しようとしない。学校の先生だけが怪訝そうな面持ちで「私」の相手をしてくれる。「私」は先生の態度に不安になったり腹が立ったり、そして一人で食事をし、眠る。そういう日々が1日、そしてまた1日と続いていく。

 

偽装結婚をした夫は一切、「私」の前に姿を現さない。代わりに、夜な夜な違う姿で「私」の夢の中に現れる。ある夜、男は結婚適齢期で働き盛りだった。

夫は癇癪を起こして、なぜ答えない、聞こえないのか、と怒鳴って、私の耳の穴に万年筆を突っ込んだので、黒インクが鼓膜に染みてさらに体に侵入していった。インクが体に入ってしまえばおまえも俺の仲間だなあ、と言うので、どうしてですか、インク壺じゃあるまいし、それより私の帳面を返してください、と言ったところで目が覚めた。

夫は「私」の体を黒インクで満たして「仲間」にしようとする。黒インクといえば、この小説にはいたるところでイカが出てくる。「私」は子供たちから「旅のイカさん」とバカにされ、初めて入った店の手伝いでイカの耳をむしらされ、最後のシーンで夫の部屋だった場所に転がっているのも死んだイカ

 

私は異国に馴化するのがすごく苦手な方だと思う。あいにくドイツには行ったことがなく、思い出すのは、霧に包まれたトリノで 、学校へ向かうために川沿いの道を歩いていたときのこと。枯れ木のように佇む物乞いの老婆や、犬を散歩する若夫婦や、黒ずんだ手でタバコをふかす移民や、ポーカーに興じる男たち…「旅のイカさん」だった私は、そんな人たちの前を逃げるように通り過ぎた。共同体に馴化できないイカさんが、世界の異化の可能性を秘めているなんてことがあるのだろうか。

 

あのときの私には出来なかったことが、この不安定な文章の中から見つかるだろうか。多和田葉子は日本語の中で生きるのでもなく、ドイツ語の中で生きるのでもなく、その両者を混ぜ合わせ、そして壊そうとしている。

 

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