ヘルマン・ヘッセ『メルヒェン』

Hermann Hesse MÄRCHEN / 『メルヒェン』

 埋もれていた無数の記憶が揺すぶられ、流れ、ころがりはじめた。暗い目をした人間の顔が見えた。その目が強いるように山に尋ねた。

「願いごとをしたくはないかい?」と。

メルヒェン (新潮文庫)

メルヒェン (新潮文庫)

 『メルヒェン』には、ヘルマン・ヘッセの作品の中でも、とりわけ美しい短編が8つ収められている。メルヒェンとは、日本語でおとぎ話や童話と訳されるような、空想と現実とが入り混じった物語の形式のことを指すが、この作品は、おとぎ話として子供が読むには少し難しいものが多いような気がする。さらに、日本の小学校の国語の教科書によく載っている、ヘッセの『少年の日の思い出』とも趣が大きく異なっている。ここに収められている作品たちはどれも教訓的で、神秘的で、少し難解に感じられたのだ。

大人のためのメルヒェンと呼ぶことができないだろうか。

 

新潮文庫版の解説には、これらの作品が書かれた時期が詳しく説明してある。『アウグスツス』、『詩人』、『笛の夢』は第一次世界大戦前に書かれ、以下『別な星の奇妙なたより』を含む5作は第一次世界大戦中に書かれたそうだ。こうした経緯を踏まえて作品を見てみると、前半の三作には、一人の人間、あるいは芸術家としての魂の求道が描かれているのに対して、後半の五作にはそうした傾向に加えて、世界そのものの本質を問いただす眼差しが含まれ、作者の意図の変容が確かに感じられる。

 

『アウグスツス』では、「誰からも愛される子になってほしい」という母の祈りが文字通り叶えられ、人々の愛に包まれて育った少年が、その愛に慢心し、貪婪に食いつくし、放蕩に耽るさまが描かれる。少年はやがて、愛される代わりに愛することを望み、全ての富や名声や他人からの愛を失うが、愛することを知ったとき初めて、彼は世界の美しさと人生の喜びを知る。対比が明確で鮮烈な童話だ。

 

対して、『別な星の奇妙なたより』は、童話を飛び越したSFのような作品になっている。ある平和な街が大地震に襲われ、死者を埋葬するための花が欠乏してしまった。花不足を救うため、勇気ある少年が救いを求めて王様を探しに行く。しかし、少年が、不思議な鳥に運ばれて、たどり着いたのは戦争に明け暮れ、人々が餓え死にたえる、全く別の世界だった。彼の元いた世界では、戦争は遥か昔のおとぎ話と化していた。その世界の王様は少年の無垢な言葉に真摯に心を傾けたが、戦争をやめることはなかった。

王様は頭を振った。「わしの国では人殺しも珍しくはないが」と彼は言った。「最も重い犯罪だと見られている。戦争の時だけはそれが許されている。戦争では、だれも憎しみや、ねたみから、自分の利益のために人殺しをするのではなくて、みんな団体から要求されることにすぎないからだ。だが、われわれがむぞうさに死ぬと思ったら、誤りだ。死人の顔を見れば、それがわかる。彼らは苦しんで死ぬのだ。苦しんで、いやいやながら死ぬのだ。

大きな力に突き動かされ、誰一人戦いの歯車から逃れることのできなかった「総力戦」と呼ばれる第一次世界大戦の惨禍の中でヘッセが見つめた戦争の姿がこの作品の中で浮き彫りになっている。

ヘッセの作品の登場人物たちは、誰もが魂の旅をしている。悩み、愛し、傷付きながら、ときには求道僧のように長い旅に身を投じることになる。ただ、最終的に、『車輪の下』で死に向かうハンスとは違って、『メルヒェン』の登場人物たちは、最終的には生きることの意味を悟り、救いを得るのだが、そこに戦前戦中のヘッセの問いの変遷を見出すことはできないだろうか。ヘッセ自身もまた、人が生きることの意味を問い、そして救いを求めながら、これらの作品を書いたのかもしれない。

 

他にも、『メルヒェン』の童話の中に登場する、魔法使いに注目したい。

アウグスツスの人生を左右する不思議な老人の姿をした魔法使いは、優しく母子を見守り、彼らを導く存在だった。極度に介入することもなく、願いを叶えるのはいつも、人が心から何かを願うときだけだった。最後のシーンを経て読者の目に老人の存在は極めて超越的なものとして映ることになる。

 一方で、『ファルドゥム』で登場する「よその男」も同様に不思議な力を持っているが、『アウグスツス』に登場する老人とは違って、次から次へと簡単にファルドゥムの街の人々の願いを叶えてしまう。美しく長い髪、清らかな手、踊れる足、ソーセージ、お金…人々がたとえ何を願おうとも、この男は何の対価も必要としないし、むしろ男の方から「何か願い事はないのか」と迫ってくる始末だ。とあるヴァイオリン弾きが、静かな場所でひとりヴァイオリンが弾けるように願うと、ヴァイオリン弾きは消えた。それを見た、何よりもヴァイオリン弾きの奏でる音を愛していた青年は、嘆き悲しみ、山になることを祈った。かくしてファルドゥムの真ん中には大きな山ができた。そして、人々の願いを粗方叶えてしまうと「よその男」は黙って去ってしまった。

しばらくして、富や美しさを願った人々は、すぐにその願いの実りを消耗していた。一方で、誰よりも悲しみを理由にして願いを抱いた青年は、山として悠久の時を享受し街を眺め、そして生きることの意味を知ることとなった。ここにも鮮明な対比が見られる。

ヘッセが描く魔法使いたちは、温かく、そして時に残酷に、人間たちの人生を動かしては、黙って彼らを眺めることを楽しむ、神のような存在のようだ。 

 

そして最後に、ヘッセは何よりも詩人だったということを思い出したい。「詩人になるか、でなければ、何にもなりたくない」といって神学校を飛び出したヘッセのエピソードはあまりにも有名だ。これらのメルヒェンが、願い事をすることも、旅に出ることも、忘れてしまった大人のために捧げられているとすれば、作品を読むとき、私たちは、至るところに散りばめられた詩的な煌めきを受け止めることから始めなくてはならないだろう。

 

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